daraodarasukeのブログ

理想はアンコウのように替えの効かない存在になることです。

「好かれる」という名の馴れ合い

「あの人はよく周りから好かれている」

「周りから好かれるように振る舞おう」

「好かれやすい雰囲気・態度」

 

社会人になって働いている人(それだけじゃなく学生も)や、誰かとの良い関係を望んだことのある人なら、上記の言葉は絶対に一度は自分に言い聞かせたり、意識したり、周りの人から言われたことがあるだろう。

 

なぜなら、そう心の中で呪文のように唱えていると、本当に現実としてその言葉通りになったり、同じような考えを持った人が自然と集まってくるからで、また、そのことによって、自分自身が置かれた環境にうまく適合し、人間関係に恵まれて障害のない充実した人生を送ることができると多くの人の間で信じられているからだ。

 

僕自身も、かつてはまさにそのように、充実した人生を送りたいと思って様々な人の集まる場に参加したり、周囲の人間に気に入られようと、頼まれたことは喜んで受け、積極的に雑談をして交流を深めようと頑張っていた時期が少しではあるけれどもあった。

 

だけど、結果的に全く人生を充実させることはできなかった。

 

いや、むしろ、本当は行きたくないと思っているのに、それを無視して無理やり人の集まる場へ行って、精神的にボロボロになって帰ってきたり、本当はやりたくないと思っているのに他人の都合を優先して、その結果相手が思うような反応をしてくれず、勝手に恨みに近いような感情を抱いたり、本当は好きでもなんでもない相手であるがゆえに乏しい共通の話題を血眼になって探した挙げ句、何も話したくなくなってしまったり、人生を充実させるどころか、どんどん貧しくさせる結果しかもたらさなかった。

 

そして、何が一番僕にとって決定的に堪えたかというと、こんなに頑張ったのに人に全く好かれなかったことだ。

 

もちろん、人によっては同じ方法でも結果たくさんの人に好かれて、自分の思い描く充実した人生を実現させることができることもあるだろう。

 

だけど、それができるのは本当に限られたごく一部の人だけであって、そんな、「人として〜」とか、「常識として」みたいにあたかもそれが当たり前みたいな風潮で語られるのは絶対違うと僕は思う。

 

そして、その「好かれる」ことを絶対条件に置いた考えが巷で蔓延しているせいで、交換条件を大前提にした妙な馴れ合いや、僕のようにその考えと根本的に相性の悪い人間が不幸な思いをしたり、損ばかりするといった残念な現象が起きていることにつながっているとも思う。

SNS疲れのイラスト(男性)

ちなみに僕は、自分の身を削って無理やり頑張っても人から好かれることはないという事実を知って、もう「好かれる」ということ自体をやめた。

もうこれ以上そんなことをしていたら、ますます不幸になってしまうし、なにより、自分自身の人格がどんどん死んでいくと悟ったからだ。

 

行きたくもない集まりには極力行かない!

相手の反応をいちいち気にしない!(どうしても気になっちゃうことはあるけど)

会話の続かない人と思われても良い!

 

今の僕の考えはこんな感じだ。

当然、これでは人から好かれることはない。

だけど、無理をしていないので、クッタクタに疲れ果てることもない。

どうせ人から好かれないのなら、自分に極力損が回らないほうが良いに決まってる。

それに、僕は今の自分のほうが自然体な気がしているから好きだし幸せだ。

 

結局、誰から好かれるよりも、自分が自分のことを好きでいられる方が、ずっと幸せなんだ。

100人の他人から好かれても、肝心の自分のことが嫌いで、いつもその嫌な本当の自分を隠したり、別の人格を演じたりしていたりする人が果たして幸せな人なんだろうか?

その人が好かれているのはあくまで偽りの人格であるからって、本当のその人の姿を自分自身でも受け入れられないなんて、こんな悲惨なことはないと思う。

 

しかし、周囲には本当にこの、人から「好かれる」ことを病的なまでに追い求めている人が多いなーと思う。

もしかしたら、そんな自覚すらなく、無意識なのかもしれないけれど、、、

 

たとえ自分の体力や時間の多くを削っても。

自分という人間であるための貴重な感性や思考を失ってでも。

時に都合よく利用されようとも。

 

それでも人から「好かれようとする」ことをやめない。

もしかしたらやめられないのかもしれない。

 

そもそもだけど、他人から信頼や好感度を得るために、なぜそんなに自己犠牲を払わなければいけないんだろうか?

なぜ最も大事にすべき自分を一番ないがしろにし、ぶっちゃけどうでもいい“他人様”ばっかり優先するんだろうか?

 

少し1人の時間に冷静になって考えてみれば、不本意な気分になってまでやることじゃないなって分かるはずなのに…

 

それにその結果、相手から好かれたとしても、その先にあるのはただの「馴れ合い」ばっかりだ。(もちろん全てが無駄とは言わない。)

 

傍からは仲良くしているように見えても、実は片方が合わせてばかりいるからすり減っていたり、相手が自分が払った犠牲に見合った見返りをくれないから、相手を恨んでいたり。

 

今後、その人との付き合いが続くということは、その後もずっと自分を犠牲にしていかなければ関係は続かないってことは、関係の成り立ちから言えば当たり前のことなのに、勝手に相手に期待して裏切られて、傍から見たら何やってんの?って思う。

 

あるいは互いに本当の自分ではなく、偽りの自分を演じ、それぞれが好意を持ったとして(別に男女の関係に限った話ではない)、嘘っぱちのキャラクラーだから会話の内容も薄っぺらくて、交わした言葉の数に見合うだけの深い関係性も築けない。

だけどこの偽りの自分でなければ相手からは愛想を尽かされてしまうだろうから、本当の自分は見せられず、今のままでいくしかない。

 

そんなことを互いに思っているから、ペラペラの関係性のまま気づけば何年も経っていたりする。でもそれは相手もそうだから自分だけが損をしたわけじゃないからいいかななんて当人は思ったりする。

そして、いつの間にか本当の自分が何なのか分からなくなっている。

なんて残念な関係性なんだろう。

 

「好かれる」ことを第一優先にした行動の結果、生まれた「馴れ合い」から始まる関係性がもたらすのは、結果として悲劇ばっかりだと思う。

 

それにもかかわらず、世間では「好かれる」のは人として当然の資質であるかのように、盲目的なまでに信じ込まれている。

これは一種の宗教のような、そんな怖さすら感じる。

 

そもそも、だいたい、「好かれる」って受け身じゃないか。

もうその時点で他人に頼り切っている感がプンプン漂ってくる。

自分の感覚が信用できなくて、人様の感性を当てにしてばかりいるから自然とそうなってしまうんだろう。

損得勘定抜きに、自分はこれが「好き」だとか、これがいけ「好かない」とか、自然に感じることもきっとあるはずなのに。

繰り返しになるけど、本当にただただ残念なことだと思う。

 

 

だから、もう少し、世間の「好かれる」教の信者が減ってくれると、自分らしくいられて生きやすくなり、本当の意味で充実した人生を送れる人が増えるんじゃないかな−と思う。

 

それに、偽りの自分をたくさんの人に気に入ってもらえたとしても、いつかは本当の自分を見せなければならない時は必ず来るはずなので、だったら最初から本当の自分でいるほうが、本当に自分のことを「好き」でいてくれる人を早く見つけることができるから、結局遠回りせずに済むっていう利点もあるし。

 

別に素で振る舞って周りに好かれなくてもそれはそれで良いじゃないか。

当たり障りのない態度で万人に「好かれる」よりよっぽどマシだと思う。

それが自分の人生を生きるということでもあると言いたい。

 

なにより、本当の自分のことを自分が大好きでいられる。

これに勝るものはないと思う。

 

 

おわり